image: Shinjo“電車が悪いんです”
九段下駅の改札口で、ざわつくスーツ姿の男たちの中、彼女のいらいらとした様子は抜きん出ていた。うねうねとした海洋生物のようなヒダの波打つブラウスに、短いスカート。走ることなどできそうもないハイヒールのミュール。ブランドもののバッグを持ち、もう一方の手には携帯電話。その電話を握る指の爪には、キラキラ光るブラスチックの小片が無数に貼り付けられていた。彼女の表情としぐさが、ふてくされた気分を、強く主張していた。
改札口にはホワイトボード[1]が置かれ、電車の運行が遅れたことの原因が掲示されていた。そして、改札口には、発行される遅延届けを求める人が群がっていた。彼女も、その中の一人だった。
遅延届け[2]。それは、何のためにあるのだろう、と思った。約束の時刻に、約束の場所へ行く。それは、そこに自分を必要としてくれる人がいるから、自分が役に立てる状況があるからだろう。もしくは、逆に、自分が必要としている誰かを待つためだろう。
遅れるということは、その約束を守れない、ということ。自分にかけられた期待を裏切ることであり、役に立てないことだ。理由が何であれ、そうした裏切りをしてしまったことに、違いはない。ならば、遅延届けに、何の意味があるのだろう。
自分のせいじゃないんです。電車が悪いんです。自分も交通網への信頼に裏切られたんです。被害者なんです。そんな、免罪符[3]のようなものなのかな。
その女は、遅延届けを無言で受け取ると、あせる様子もなく、地上へとつながる階段を上った。メールを打ちながら。
もちろん、仕事のメールなのかもしれないし、体調のせいで走れないのかもしれない、そうも考えられるが、でも、やはり、どうなんだろう、その態度は、と思った。人それぞれだということは十分にわかっているけれど、それでも、やはり、イラついた。すぐにイラつく自分にも、心が狭いなあ、とイラついた。
referenced works
- ホワイトボード:電車の運行上、何かトラブルがあったときに設置される立て看板。緊急のお知らせのため、手書きであり、生々しい。美しい文字を見かけることは、極めて少ない。 ↩
- 遅延届け:電車の運行に遅れが出たということを証明するための書類。会社や学校に提出するために用いられる。 ↩
- 免罪符:それを持っていれば、罪の償いから免除される。そんな都合のよい存在として、ローマカトリック教会が十五世紀末に発行した証書。 ↩
location information
- 場所: 千代田区九段北の都営新宿線九段下駅改札口
- 時間: 昼
- 緯度: 35.695591
- 経度: 139.751952
- 地図: Google Maps
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