image: up2u“今年も蕎麦が食べられるなぁ”
大きく息を吸い込んで、吐き出した。口を「あ」の発音をするときのように広げたから、少し白い気体が出た。
永代橋[1]の上で夕日を撮る為にやってきた。大晦日だけど車はひっきりなしに橋の上を駆け抜けていく。僕は自分なりのシャッターチャンスを狙っていた。夕日が超高層ビルの陰に隠れて空の下を朱に染める。空の上は夜の帳を引く準備をしている。いい頃合だと思い、デジカメのシャッターを切った。佃島に聳え立つ高層ビル群がいい具合にシルエットになり、夕日の朱が映える。
冬の風は、排気ガスの臭い、冬の冷たさ、クラクションの音、誰かの笑い声、犬の鳴き声、飛行機の音、潮の匂い……、なんでも運んできた。
はっきりとは分からないが、ぽつぽつとビルに明かりが灯り始めた。
僕の後ろを老いた夫婦がゆっくりと通り過ぎる。スーパーの袋を提げてカシャカシャと音を立て、「寒いなぁ。早く帰ろう」「そうですねぇ」「今年も蕎麦[2]が食べられるなぁ」「早くしないと紅白が始まりますよ」と、そんな内容だったと思う。
後ろ姿を見ると背を丸めてすこし早歩きで歩いていた。
僕は、ゆっくりと水天宮の方へ歩き始めた。水天宮の交差点に差し掛かった時、人形焼[3]の店の明かりが見えた。無性に人形焼が食べたくなり少し多めに買い求めた。
折よく、携帯電話が鳴った。母からだ。
「いまどこにいるの? 今日は家で蕎麦食べるんでしょう?」
「うん。今から帰るよ」
「早く帰ってらっしゃい」
「わかった。ああ、それと……」
「なに?」
「……ううん。なんでもない。じゃ切るよ」
僕は、水天宮駅の地下入り口の階段を駆け下りていった。
referenced works
- 永代橋:歴史は古く、架橋は1698年と言われ、江戸時代初期にまでさかのぼる。永代とは、長い年月、永久、とこしえ、という意味であり、「ひととき」とまったく異なる時間単位である。現在の橋は、大正15年に完成。2007年には、勝鬨橋、清洲橋とともに、国の重要文化財に指定された。 ↩
- 蕎麦:晦日とは、月末の30日を意味する。大晦日とは、最後の月末、すなわち年末を意味する。その大晦日の夜に年越し蕎麦を食べるという風習は、日本全国に見られる。細く長い蕎麦の形状に由来し、細くとも長く元気に生き延びることを願って食される。太く短い人生を望む者は、食してはならない。 ↩
- 人形焼:中央区の人形町が発祥と言われ、七福神などの形をしている。皮の中にはたっぷりの餡が入っている。面白いことに、七福神といいながら、大概の店のものは、六福神になっている。七福神とは、恵比寿、大黒、毘沙門、弁財、福禄寿、寿老人、布袋の7柱である。それぞれの店で、どの神が抜けているか探してみるのも面白い。 ↩
location information
- 場所: 中央区新川一丁目の永代橋の上
- 時間: 夕方
- 緯度: 35.676437
- 経度: 139.787292
- 地図: Google Maps
commentary